【過去の記事】感動の場-点 2023/4~2024/3
まちの広報誌『広報くっちゃん』では、小川原脩作品の紹介ページ「感動の場 - 点」を連載しています。

2024年3月
『馬』(1963年) 小川原 脩 画
ギョロリとこちらを見る大きな目。ガッチリかみあったむき出しの歯。黒くて縮れたたてがみは誇張され、頭から不気味に垂れ下がっています。灰色で塗られた胴体にほとばしる茶色の絵の具は、体毛に絡みつく土や枯れ草でしょうか。前足は地面に刺さる棒のように単純な形で描かれ、馬体を支えるには貧弱な感じがします。腹の真ん中あたりをよく見ると、後ろ足の下描きがみられますが、それを塗らないままこの絵は完成しました。
なぜ小川原脩はこれほど大きな頭の馬を描いたのでしょう。それは小川原が見る人の視線を馬の顔に向けたかったからではないでしょうか。あらためて馬の顔を見ると、むき出した歯茎に塗られた赤い色は恐怖心を与え、白い絵の具を上塗りして鋭く光るように見える目と歯に、誰もが警戒心をもつでしょう。小川原は幼少期に馬にほっぺをかまれて大騒ぎになったことがあります。それ以来、馬に対して畏敬の念を抱くようになりました。馬は臆病で優しい動物といわれていますが「うかつに近づくと痛い目にあう」ということを伝えたかったのかもしれません。文:(I.K.)
『馬』(1963年) 小川原 脩 画
ギョロリとこちらを見る大きな目。ガッチリかみあったむき出しの歯。黒くて縮れたたてがみは誇張され、頭から不気味に垂れ下がっています。灰色で塗られた胴体にほとばしる茶色の絵の具は、体毛に絡みつく土や枯れ草でしょうか。前足は地面に刺さる棒のように単純な形で描かれ、馬体を支えるには貧弱な感じがします。腹の真ん中あたりをよく見ると、後ろ足の下描きがみられますが、それを塗らないままこの絵は完成しました。
なぜ小川原脩はこれほど大きな頭の馬を描いたのでしょう。それは小川原が見る人の視線を馬の顔に向けたかったからではないでしょうか。あらためて馬の顔を見ると、むき出した歯茎に塗られた赤い色は恐怖心を与え、白い絵の具を上塗りして鋭く光るように見える目と歯に、誰もが警戒心をもつでしょう。小川原は幼少期に馬にほっぺをかまれて大騒ぎになったことがあります。それ以来、馬に対して畏敬の念を抱くようになりました。馬は臆病で優しい動物といわれていますが「うかつに近づくと痛い目にあう」ということを伝えたかったのかもしれません。文:(I.K.)

2024年2月
『平野で』(1988年) 小川原 脩 画
「『感動の場―点』でどうだろう、点がたくさん集まり、まとまる、それが美術館ということかな」と小川原脩は連載当初に発案し、それがそのまま、この作品紹介コラムのタイトルになりました。1998年の美術館着工を機に始まった連載は開始して25年が経ち、小川原脩から2名の学芸員へ、そして学芸スタッフを交えた形へと執筆者を変えながら、掲載300回を越えました。(今回は308回目です。)
この作品は1998年10月号で紹介され、小川原本人による文章が寄せられました。1986年の暮れから87年の正月をインドのウッタルプラディッシュ州で過ごした時のことを振り返っています。『・・・ウッタルプラディッシュ州はインドでも最も豊かな土地なのだろう。サトウキビの収穫期なので、どこを通っても収穫したサトウキビのくきをいっぱいに積んだ車を水牛がひいて行く。行けども行けどもという感じだ。この豊かな農村が、インドの経済を支えているのだろう。農家の庭先のようなところで、麻袋につめられた穀物らしいものを見かけたのが印象に残ったし、はちきれんばかりの麻袋の量感が、この地の象徴と思って鳩を飛ばし、素焼の壺とをアレンジして、インドの農村への讃歌という意味を持たせた作品である。・・・』
作者本人や学芸員が添えた言葉とともに絵を見ると、また違ったものが見えてくるかもしれません。(文:E.N)
『平野で』(1988年) 小川原 脩 画
「『感動の場―点』でどうだろう、点がたくさん集まり、まとまる、それが美術館ということかな」と小川原脩は連載当初に発案し、それがそのまま、この作品紹介コラムのタイトルになりました。1998年の美術館着工を機に始まった連載は開始して25年が経ち、小川原脩から2名の学芸員へ、そして学芸スタッフを交えた形へと執筆者を変えながら、掲載300回を越えました。(今回は308回目です。)
この作品は1998年10月号で紹介され、小川原本人による文章が寄せられました。1986年の暮れから87年の正月をインドのウッタルプラディッシュ州で過ごした時のことを振り返っています。『・・・ウッタルプラディッシュ州はインドでも最も豊かな土地なのだろう。サトウキビの収穫期なので、どこを通っても収穫したサトウキビのくきをいっぱいに積んだ車を水牛がひいて行く。行けども行けどもという感じだ。この豊かな農村が、インドの経済を支えているのだろう。農家の庭先のようなところで、麻袋につめられた穀物らしいものを見かけたのが印象に残ったし、はちきれんばかりの麻袋の量感が、この地の象徴と思って鳩を飛ばし、素焼の壺とをアレンジして、インドの農村への讃歌という意味を持たせた作品である。・・・』
作者本人や学芸員が添えた言葉とともに絵を見ると、また違ったものが見えてくるかもしれません。(文:E.N)

2024年1月
『白い壁黒い牛』(1982年) 小川原 脩 画
1958(昭和33)年、小川原脩は野本醇、穂井田日出麿ら倶知安ゆかりの美術家と共に「麓彩会」を結成しました。この作品は24回目となった麓彩会展に展示した中の1点で、チベットの街の情景を描いています。
1981年と1982年に小川原は夏のチベットを訪れました。当時の新聞に、チベットの旅について書いた小川原の文章が掲載されています。そこには「チベットの夏空は深く澄み切った青だ。なんとも聡明で濃厚で、その下には強烈な直射し、反射する日光が満ちあふれる。何もかもが光の中に輝いて見える。」とあります。
作品に目を向けると、深みのある青で塗られた澄んだ空、直射する日光を反射する白い壁、赤を混ぜた明るい色で乾いた地面が表現されています。牛の体や大きさの違うさまざまな建物の曲線が絵全体をリズミカルに仕上げているのです。
牛は少し首をかしげて建物の方を向いているようです。人が通り過ぎたのでしょうか。チベットの街では牛と人が同じ地面、同じ時の流れの中に存在すると小川原は語っています。私はこの絵を眺めると、時間がゆったりと過ぎていくチベットの街角に佇む旅人の気分になるのです。文:(I.K.)

2023年12月
『ニセコとイワオ』(1962年) 小川原 脩 画
倶知安から西の方角に望む、ニセコアンヌプリと北隣にならぶイワオヌプリの姿そのままに描かれています。二つの山の頂き付近の深い沢でしょうか、白い雪が見て取れます。上空に浮かぶ白い雲はずいぶんと優しい雰囲気です。森の木々は淡くくすんだ晩秋らしい色がおおらかに並んでいます。冬のはじまりの季節を写し取ったこの作品は、長年、持ち主に愛されていたそうです。
この作品の来歴を、ご紹介します。「ニセコとイワオ」は、かつて倶知安町で開業していた医師・石田夫妻が小川原脩本人より譲られ、石田医院に掛けられていました。やがて倶知安の病院を閉じ、札幌で診療所を開いた時にも、この作品は院内を彩ったそうです。小児科医であった暁子夫人は亡くなるまでこの絵を見て倶知安を懐かしんでいたとのこと。さらに暁子夫人から引き継いだ方とともに旭川へ移動します。描かれてから60年あまり。倶知安から北上を続けた本作は、今年の10月当館へ寄贈され、倶知安への里帰りを果たしました。文:(E.N)
『ニセコとイワオ』(1962年) 小川原 脩 画
倶知安から西の方角に望む、ニセコアンヌプリと北隣にならぶイワオヌプリの姿そのままに描かれています。二つの山の頂き付近の深い沢でしょうか、白い雪が見て取れます。上空に浮かぶ白い雲はずいぶんと優しい雰囲気です。森の木々は淡くくすんだ晩秋らしい色がおおらかに並んでいます。冬のはじまりの季節を写し取ったこの作品は、長年、持ち主に愛されていたそうです。
この作品の来歴を、ご紹介します。「ニセコとイワオ」は、かつて倶知安町で開業していた医師・石田夫妻が小川原脩本人より譲られ、石田医院に掛けられていました。やがて倶知安の病院を閉じ、札幌で診療所を開いた時にも、この作品は院内を彩ったそうです。小児科医であった暁子夫人は亡くなるまでこの絵を見て倶知安を懐かしんでいたとのこと。さらに暁子夫人から引き継いだ方とともに旭川へ移動します。描かれてから60年あまり。倶知安から北上を続けた本作は、今年の10月当館へ寄贈され、倶知安への里帰りを果たしました。文:(E.N)

2023年11月
『静物』(1955年) 小川原 脩 画
この作品は22㌢×22㌢の小さなキャンバスに描かれています。画面のほとんどを占めているのは白いカップとふたつの桃。その周りを茶色の濃淡で塗り分けてテーブルと壁を描き、落ち着いた空間を表現しています。写実的に描かれた桃とは対照的に、カップが不自然に見えるのは、横から見た形と少し上からのぞいて見た形が一つに構成されているからです。そこにはフランスの画家ポール・セザンヌの絵画様式を追求した跡がみられます。
セザンヌは近代絵画の父といわれ、遠近法などの伝統的な絵画の約束事にとらわれず独自の絵画様式を探求し、ピカソやマチスにも影響を与えた画家です。1955年頃の小川原脩はフランスの現代絵画にも刺激を受け、具象を大胆にデフォルメしたものを画面の中で自由に構成するなど常に新しい表現を試みていました。そのモチーフには北海道に生きる人や動物、風景を用いて小川原独自の作品を精力的に発表したのです。素朴な静物が描かれた小さな作品ですが、小川原が試みた新しい絵画様式でモダンな印象に仕上がっています。文:(I.K.)
『静物』(1955年) 小川原 脩 画
この作品は22㌢×22㌢の小さなキャンバスに描かれています。画面のほとんどを占めているのは白いカップとふたつの桃。その周りを茶色の濃淡で塗り分けてテーブルと壁を描き、落ち着いた空間を表現しています。写実的に描かれた桃とは対照的に、カップが不自然に見えるのは、横から見た形と少し上からのぞいて見た形が一つに構成されているからです。そこにはフランスの画家ポール・セザンヌの絵画様式を追求した跡がみられます。
セザンヌは近代絵画の父といわれ、遠近法などの伝統的な絵画の約束事にとらわれず独自の絵画様式を探求し、ピカソやマチスにも影響を与えた画家です。1955年頃の小川原脩はフランスの現代絵画にも刺激を受け、具象を大胆にデフォルメしたものを画面の中で自由に構成するなど常に新しい表現を試みていました。そのモチーフには北海道に生きる人や動物、風景を用いて小川原独自の作品を精力的に発表したのです。素朴な静物が描かれた小さな作品ですが、小川原が試みた新しい絵画様式でモダンな印象に仕上がっています。文:(I.K.)

2023年10月
『森の入り口の白い樹』 (1988年) 小川原 脩 画
白い樹皮の木が2本、画面の左右にどっしりと構えた様子はあたかも「門」です。その間に1羽の鳥が羽ばたいています。黄色いくちばしにふくよかな体の鳥は、大きく尾羽根を広げ着地しようとしているのでしょうか。だいだい色から赤茶へと濃くなる色彩が、その奥に広がる空間の深さ、濃密さをほうふつとさせます。
この頃、小川原脩は1986年にインド・ウッタルプラデシュを旅した際に取材した風物を繰り返し描いていました。作品に登場するものはインドの豊かな農作物をたっぷり詰め込んだ麻袋、素焼きのつぼ、平たい家屋の街並み、そして羽ばたく鳥。さまざまに組み合わせが試され、多くの作品が生み出されました。
88年、30周年を迎えた麓彩会展にもそのような作品を出品しています。その中に、本作も含まれていました。この作品にはインドの風物は現れていませんが、同じように羽ばたく鳥の姿が共通しています。旅先で印象を得た鳥のモチーフと葉を落とした白い樹が織りなす、倶知安の冬のはじまりを叙情的にうたった一点となっています。文:(E.N)

2023年9月
『無題』 (1961年頃) 小川原 脩 画
1958年の夏に、倶知安町内の峠下小学校の児童たちが数個の石器をみつけたことで遺跡調査が始まり、小川原脩も発掘に参加していました。
出土した土器や石器から考古学に関心を持った小川原は、1950年に発見された余市町のフゴッペ洞窟にも足を運びました。発掘現場でみた太古の人々のテクノロジーと感性は小川原の創作にも強い影響を与え、遺物や砂岩壁に刻まれた刻画をモチーフに数十点描き、その頃小川原と仲間たちが発足した「麓彩会」に次々と作品を発表しました。
画面の上部には、茶色を混ぜた白い絵の具が荒々しいタッチで帯状に塗ってあり、その下には赤い絵の具でいびつな四角形が描かれています。ペインティングナイフの底面にたっぷり絵具をすくいとり、キャンバスに押し当ててスライドさせた跡が、画面のモチーフを凹凸のある硬質で力強いものに仕上げています。
終戦の年郷里に引き揚げてからは、風景や身近な動物をモチーフに作品を描いた小川原でしたが、この作品では古代の人々の暮らしや情景、精神性を抽象的に表現し後志の原始の美を描いています。文:(I.K.)
『無題』 (1961年頃) 小川原 脩 画
1958年の夏に、倶知安町内の峠下小学校の児童たちが数個の石器をみつけたことで遺跡調査が始まり、小川原脩も発掘に参加していました。
出土した土器や石器から考古学に関心を持った小川原は、1950年に発見された余市町のフゴッペ洞窟にも足を運びました。発掘現場でみた太古の人々のテクノロジーと感性は小川原の創作にも強い影響を与え、遺物や砂岩壁に刻まれた刻画をモチーフに数十点描き、その頃小川原と仲間たちが発足した「麓彩会」に次々と作品を発表しました。
画面の上部には、茶色を混ぜた白い絵の具が荒々しいタッチで帯状に塗ってあり、その下には赤い絵の具でいびつな四角形が描かれています。ペインティングナイフの底面にたっぷり絵具をすくいとり、キャンバスに押し当ててスライドさせた跡が、画面のモチーフを凹凸のある硬質で力強いものに仕上げています。
終戦の年郷里に引き揚げてからは、風景や身近な動物をモチーフに作品を描いた小川原でしたが、この作品では古代の人々の暮らしや情景、精神性を抽象的に表現し後志の原始の美を描いています。文:(I.K.)

2023年8月
『群・大白鳥』1980年 小川原 脩 画
本作は横に2m近くある、大きな作品です。まるで実物大のような、12羽ほどの白鳥の群れが描かれています。更に奥にもその集団は続いているようで、彼らは群れのごく一部なのかもしれません。長い首を伸ばしたり曲げたり、優雅に羽根を広げているものもいます。白鳥たちの振る舞いから、旅の途中、いっときの休息地に降り立った直後の、高揚感と安堵感が入り交じった光景のように感じられます。
赤い背景に包まれて、白い鳥たちの姿が際立ちます。一羽一羽の仕草、姿勢も変化に富み、群れは自由な雰囲気を醸し出しています。この作品について「白いマッス(塊)の中の流れる線の交錯でありたいと願った。柔軟なものの表現を求め始めたのかも知れない。ここでも『群れ』を」と小川原自身が述べています。1970年代の「個と群れ」の厳しい対比から、1980年代に向かって優しい群れへと移り変わっていくさまが現れています。
お気づきでしょうか、シルエットだけのキタギツネが背後に潜んでいます。平穏を破る兆しのようでもあり、北国の動物たちが繰り広げる物語を予感させます。これは小川原脩ならではの、北国の風景画とも言えるのではないでしょうか。文:(E.N.)
『群・大白鳥』1980年 小川原 脩 画
本作は横に2m近くある、大きな作品です。まるで実物大のような、12羽ほどの白鳥の群れが描かれています。更に奥にもその集団は続いているようで、彼らは群れのごく一部なのかもしれません。長い首を伸ばしたり曲げたり、優雅に羽根を広げているものもいます。白鳥たちの振る舞いから、旅の途中、いっときの休息地に降り立った直後の、高揚感と安堵感が入り交じった光景のように感じられます。
赤い背景に包まれて、白い鳥たちの姿が際立ちます。一羽一羽の仕草、姿勢も変化に富み、群れは自由な雰囲気を醸し出しています。この作品について「白いマッス(塊)の中の流れる線の交錯でありたいと願った。柔軟なものの表現を求め始めたのかも知れない。ここでも『群れ』を」と小川原自身が述べています。1970年代の「個と群れ」の厳しい対比から、1980年代に向かって優しい群れへと移り変わっていくさまが現れています。
お気づきでしょうか、シルエットだけのキタギツネが背後に潜んでいます。平穏を破る兆しのようでもあり、北国の動物たちが繰り広げる物語を予感させます。これは小川原脩ならではの、北国の風景画とも言えるのではないでしょうか。文:(E.N.)

2023年7月
『ヤク』 1983年 小川原 脩 画
ヤクは標高4000~6000mの草原、岩場に生息するウシ科の動物です。体重は350~580kg、心臓は牛の1.4倍、肺は2倍の大きさがあり、ヤクを飼育している動物園はほんの数カ所しかなく、日本でヤクを目にすることはめったにありません。
小川原脩が初めてチベットを訪れた1981年のことです。標高600mの中国四川省・成都からいきなり標高3600mの高地へ移動したため、高山病になりました。そんな高地で出会ったヤクは、大きな珍しい生き物に映ったことでしょう。
画面の上部には小さな建物の集まりが、まるで遠く高い場所にあるように描かれ、大きなヤクが引き立つような構図を作っています。黒く塗られた丸い目に引き込まれます。巨体を揺らしながら乾いた地面を歩く姿は、人との隔たりのない空間で同等の存在であることを主張しているようです。
巡礼者たちが聖地に向かって一方的な流れをつくる中、悠々とヤクも通るチベットの街。人と動物が織りなすおおらかな情景の中で、ヤクは小川原にとって印象的な動物となり、作品に描かれたのでした。文:(I.K.)
『ヤク』 1983年 小川原 脩 画
ヤクは標高4000~6000mの草原、岩場に生息するウシ科の動物です。体重は350~580kg、心臓は牛の1.4倍、肺は2倍の大きさがあり、ヤクを飼育している動物園はほんの数カ所しかなく、日本でヤクを目にすることはめったにありません。
小川原脩が初めてチベットを訪れた1981年のことです。標高600mの中国四川省・成都からいきなり標高3600mの高地へ移動したため、高山病になりました。そんな高地で出会ったヤクは、大きな珍しい生き物に映ったことでしょう。
画面の上部には小さな建物の集まりが、まるで遠く高い場所にあるように描かれ、大きなヤクが引き立つような構図を作っています。黒く塗られた丸い目に引き込まれます。巨体を揺らしながら乾いた地面を歩く姿は、人との隔たりのない空間で同等の存在であることを主張しているようです。
巡礼者たちが聖地に向かって一方的な流れをつくる中、悠々とヤクも通るチベットの街。人と動物が織りなすおおらかな情景の中で、ヤクは小川原にとって印象的な動物となり、作品に描かれたのでした。文:(I.K.)

2023年6月
『巡礼家族』 1983年 小川原 脩 画
巡礼家族、この題名も小川原脩が好んで用いたものの一つです。ここでいう巡礼とは、チベット仏教徒のもので、集落または家族で一団となって、聖地であるラサや、仏の化身とあがめられるカイラス山を目指す旅を指しています。小川原脩がはじめて巡礼者の姿を目撃したのは、1981年のラサでのことでした。翌年にも再訪、さらにチベット文化の原型を見るべく1983年にはインド・ラダックへと足を伸ばしました。
ラダックから戻った1983年10月、札幌時計台ギャラリーで開催した個展は「チベット―その聖と俗」という副題が添えられていました。案内状の文章には「千の蓮弁ヒマラヤに囲まれた高地 炎天下大地に身を投じ 祈る 巡禮の生きざま 草一本生えない禿山 稜角上のゆるぎない結晶体 白く乾いた僧院建築群・・・」とありました。
この作品にも白い建物のかたまり、身を寄せ合う3人の家族、そして地面に鼻を寄せる犬が一匹。不思議な組み合わせに思えますが、チベットの巡礼者や街角で受けた印象を、端的に、しかし情感豊かに描き出しています。文:(E.N.)
『巡礼家族』 1983年 小川原 脩 画
巡礼家族、この題名も小川原脩が好んで用いたものの一つです。ここでいう巡礼とは、チベット仏教徒のもので、集落または家族で一団となって、聖地であるラサや、仏の化身とあがめられるカイラス山を目指す旅を指しています。小川原脩がはじめて巡礼者の姿を目撃したのは、1981年のラサでのことでした。翌年にも再訪、さらにチベット文化の原型を見るべく1983年にはインド・ラダックへと足を伸ばしました。
ラダックから戻った1983年10月、札幌時計台ギャラリーで開催した個展は「チベット―その聖と俗」という副題が添えられていました。案内状の文章には「千の蓮弁ヒマラヤに囲まれた高地 炎天下大地に身を投じ 祈る 巡禮の生きざま 草一本生えない禿山 稜角上のゆるぎない結晶体 白く乾いた僧院建築群・・・」とありました。
この作品にも白い建物のかたまり、身を寄せ合う3人の家族、そして地面に鼻を寄せる犬が一匹。不思議な組み合わせに思えますが、チベットの巡礼者や街角で受けた印象を、端的に、しかし情感豊かに描き出しています。文:(E.N.)

2023年5月
『裏みち』 1992 年 小川原 脩 画
1982 年に訪れたチベットでの出来事でした。小川原脩はラサの市街地で野良犬の群れに出くわしたのです。犬との距離を保ちながらスケッチブックを取り出して野良犬たちを描き始めると、しばらく吠ほえていた犬も緊張が解け、やがて吠えなくなりました。小川原はこの犬たちを「作品になる」と思ったのです。
建物の壁が続く裏みちに、行く手をさえぎる犬の群れがいます。犬の背景に描かれた市街地の屋根や壁は単純な曲線で描かれ、建物は膨らんだ形をしています。画面全体に明るい黄土色や灰色を使うことで、入り組んだ裏みちが穏やかな空気に包まれた空間のような印象を与えます。地面にできたくぼみに体を横たえる犬、うつむいて座る犬、丸くなって寝ている犬。どの犬もおとなしくひとつのかたまりとなってやさしい群れをつくっています。
小川原は長年にわたり「群れ」とのわずらわしい関係を断ちたいと思いながら「個」の側から「群れ」をながめていましたが、80 歳を過ぎて「群れ」に対する感情にも変化があったのでしょうか。路地の奥から少し離れて群れを見ている一匹の犬は小川原自身の姿かもしれません。文:(I.K.)
『裏みち』 1992 年 小川原 脩 画
1982 年に訪れたチベットでの出来事でした。小川原脩はラサの市街地で野良犬の群れに出くわしたのです。犬との距離を保ちながらスケッチブックを取り出して野良犬たちを描き始めると、しばらく吠ほえていた犬も緊張が解け、やがて吠えなくなりました。小川原はこの犬たちを「作品になる」と思ったのです。
建物の壁が続く裏みちに、行く手をさえぎる犬の群れがいます。犬の背景に描かれた市街地の屋根や壁は単純な曲線で描かれ、建物は膨らんだ形をしています。画面全体に明るい黄土色や灰色を使うことで、入り組んだ裏みちが穏やかな空気に包まれた空間のような印象を与えます。地面にできたくぼみに体を横たえる犬、うつむいて座る犬、丸くなって寝ている犬。どの犬もおとなしくひとつのかたまりとなってやさしい群れをつくっています。
小川原は長年にわたり「群れ」とのわずらわしい関係を断ちたいと思いながら「個」の側から「群れ」をながめていましたが、80 歳を過ぎて「群れ」に対する感情にも変化があったのでしょうか。路地の奥から少し離れて群れを見ている一匹の犬は小川原自身の姿かもしれません。文:(I.K.)

2023年4月
『街』 1991 年 小川原 脩 画
現在開催中の小川原脩展「アジアの大地」の会場は、淡く明るい 黄色の作品に囲まれ、穏やかな空間を作り出しています。この色は 「ネープルスイエロー」、ネープルスとはイタリア南部の都市ナポリ の英語名で、近郊のベスビオス山で産出した鉱物から作られた絵の具といわれており、ナポリの黄色として 中世から知られていました。少しくすみのある、やや赤みがかった黄色です。
1986 年、インド北部・ウッタルプラデシュ州のムザファルナガルに小川原脩は滞在しました。太陽の光 がふりそそぐ緑いっぱいの木々に、孔 くじゃく 雀、リス、小鳥などの小動物が行き来し、花々は咲き誇る。その豊か な光景に「色でいうならネープルスイエローだ。温和で明るくて派手ではないが楽しさにあふれた私の好き な色だ」と述べています。また、画家の心に刻まれたインドでのモチーフは、球形の壺 つぼ 、台形に白い壁の家、 座る女性などがあり、晩年にかけて、さまざまに組み合わせて作品が描かれました。
本作でも、家々や道行く人を柔らかな色彩が包み込んでいます。対して、座る人物や壺の周囲を覆う深い 影が印象的で、隠された物語が浮かんでくるようです。文:(E.N)
『街』 1991 年 小川原 脩 画
現在開催中の小川原脩展「アジアの大地」の会場は、淡く明るい 黄色の作品に囲まれ、穏やかな空間を作り出しています。この色は 「ネープルスイエロー」、ネープルスとはイタリア南部の都市ナポリ の英語名で、近郊のベスビオス山で産出した鉱物から作られた絵の具といわれており、ナポリの黄色として 中世から知られていました。少しくすみのある、やや赤みがかった黄色です。
1986 年、インド北部・ウッタルプラデシュ州のムザファルナガルに小川原脩は滞在しました。太陽の光 がふりそそぐ緑いっぱいの木々に、孔 くじゃく 雀、リス、小鳥などの小動物が行き来し、花々は咲き誇る。その豊か な光景に「色でいうならネープルスイエローだ。温和で明るくて派手ではないが楽しさにあふれた私の好き な色だ」と述べています。また、画家の心に刻まれたインドでのモチーフは、球形の壺 つぼ 、台形に白い壁の家、 座る女性などがあり、晩年にかけて、さまざまに組み合わせて作品が描かれました。
本作でも、家々や道行く人を柔らかな色彩が包み込んでいます。対して、座る人物や壺の周囲を覆う深い 影が印象的で、隠された物語が浮かんでくるようです。文:(E.N)
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