【過去の記事】感動の場-点 2018/4~2019/3

まちの広報誌『広報くっちゃん』では、小川原脩作品の紹介ページ「感動の場 ー 点」を連載しています。

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2019年3月
『独秀峰』  1980年  小川原 脩 画
 
 「雪時々止む」、天気予報でこの言葉を聞いた時、なんとも上手く倶知安の冬空を言い当てていると感心した。ほんのいっとき雪が降り止み、雲の切れ間から淡い青空が見えることがある。
 さて、独秀峰は中国広西省桂林市街、旧靖江王府にある観光名所。1980年の1月、二度目の桂林旅行を果たした小川原脩は、この場所でスケッチを描き上げた。もちろん、絵の主役はこの岩山なのだが、空の色の鮮やかさにも目を見張るものがある。群青色の濃淡は岩山の存在感を浮き立たせ、更に天空の濃い部分はその先に広がる宇宙空間までも想像させる。乾季の桂林の空を見上げてみたら、吸い込まれるような青空だったのかもしれない。これもまた、冬の空を描いた作品といえるだろう。
 小川原作品に描かれる空は、群青の他、淡い水色、濃いピーコックグリーンもある。季節ごとに倶知安の空が現す豊かな色彩が、画家を育んだものの一つなのではなかろうか。

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2019年2月
『鳩と壺』  1995年  小川原 脩 画
 
 花、小鳥、モーツァルト― 会葬の際に手渡された礼状には、故人が愛したものが綴られていた。可憐で愛らしく、生命力にあふれたそれらを、静かな視線で眺め耳を傾ける姿が目に浮かぶ。伊達在住の画家・野本醇(のもとじゅん)氏。享年88歳。60年前、倶知安の地でともに絵画を志す仲間と麓彩会を立ち上げた。またひとり、小川原脩をよく知る人物が天に召され、小川原を語る言葉を聞く機会が失われてゆくことが口惜しい。最近に取り組んでいたという野本氏の淡彩画を拝見した時、小川原晩年の仕事と重なってゆくようにも感じた。
 この作品もまた、小川原が1986年のインド旅行以降、熱心に描いた鳥と壺が描かれている。数多く手掛けたその組み合わせの中で、珍しいのは、カラスではなくハトの群れだということだ。倶知安ではハトの群れを見かけない。小川原は札幌の街へ出かけてその姿を観察し「ハトはいいね」と語ったという。穏やかな言葉が、平和な群れの様子に現れている。

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2019年1月
『ニセコアンヌプリ』  1980年頃  小川原 脩 画
 
 冬、ニセコアンヌプリの山頂から麓まで、深い雪で覆われている姿を描いた一枚である。
 尾根や谷筋、そして中景の丘陵は柔らかな輪郭線で描かれているのが印象的だ。淡く膨らみのある線は水墨画を思わせる。
 小川原脩は、1979年、80年と続けざまに中国桂林を訪れ、その水墨画の世界に身を置いた。東洋の空気感を油彩で表現することに苦心し、絵の具を薄く塗り重ねる方法にたどり着いた。画家が暮らした倶知安からの風景であるこの作品にも、空、山、そして線に、さまざまな色彩が淡く織り込まれている。
 ふるさとの山として、イワオヌプリと並んで多く作品に登場するニセコアンヌプリは、小川原にとって常に心にある造形(かたち)でもあった。天空へ鋭角にそびえる山頂の表現は、この後の代表作「巓(てん)」へと展開していく。

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2018年12月
『忿怒学的散歩』  1986年  小川原 脩 画
 
 「忿怒学」は、小川原脩がつくった造語である。忿怒とは、大いに怒ること。忿怒の形相といえば不動明王などの神仏にも見られるもので、人々を襲う悪をその恐ろしい風貌で追い払うほかに、畏怖をもって、教えに耳を貸さない衆生たちを導く顔である。これを学問するということらしい。
この作品の主役はやはり、黒茶の肌に三つ目を見開き、頭に5つの髑髏(どくろ)を載せて、口を大きく開いた、顔。子どもたちから、獅子舞の「ししがしら」という声があがった。本来はチベット仏教寺院の祭祀で僧侶が被る神仏を模した仮面で、舞踏によって悪霊との闘いの物語が紡がれる。ししがしらとチベットの仮面に「神聖なもの」「厄よけ」といった共通点を、感じ取っているようだった。
 小川原は1983年、いにしえのチベット文化が色濃く残る地・ラダックを訪れた。3 年の時を経て題材となったこの仮面は、衣をなびかせ、ふわふわと宙を浮いて動き回り、ちっとも怒っているように見えない。子犬たちと街を行く姿には、ユーモアを効かせた「忿怒学的散歩」が一番しっくりくるように思う。

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2018年11月
『晩秋の羊蹄山』  1978年  小川原 脩 画

 小川原脩は、羊蹄山は難しい山だと生前に語っていた。「近すぎて、難しい」と。その存在が圧倒的だということか、身近なものへの自分なりの再現というものが問題だったのだろうか。一方で、羊蹄山に向かって立ち、スケッチブックにその姿を写し取る小川原の写真が残っている。その表情は清々しく、どこか誇らしげでもある。羊蹄山に対する小川原の思いは、いささか複雑なもののようだ。
 羊蹄の山頂が雪に覆われ、雲間には淡い青空がのぞく。林も丘もくすんだ枯れ葉や枯れ草が残る程度となって、いよいよ冬本番へと向かって行く。冷たく澄んだ空気が肌に触れると、心に凛とした美しさとなって伝わる、そのような経験をお持ちではないだろうか。冴え冴えとした色彩に晩秋の樹々の繊細さを添えた本作は、この土地に暮らす私たちの肌感覚にぴたりと合い、心に残る一点だと思う。

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2018年10月
『無題』  1970年  小川原 脩 画
 
 日が短くなってゆくこの季節、夕闇もずいぶん早く訪れるようになった。
 濃い赤の地面を背景に、犬の形が浮かび上がり、周りには影が伸びている。少し離れて、深い青の中に数件の家が見える。
鮮やかな黄色の小さな屋根は、どことなく、家の中の明かりや暖かさを思わせる。薄暗くなった夕暮れに、家路を辿る中で出会う色彩だ。
 犬の赤茶色の毛は、実は色鮮やかな色が重なり、街の明かりを映しているのかもしれない。シルエットだけで顔も、表情も、描写されていない。しかし、高く持ち上げくるりと巻いた尻尾、頭をほんの少し上げた仕草に愛嬌を感じる。家族を出迎えているのだろうか。もの悲しさから解き放たれ、優しい時間が始まる。

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2018年9月
『土』  1959年  小川原 脩 画
 
 年に一度、倶知安の町や羊蹄山麓、後志にゆかりのある作家 たちが集う麓彩会展。今年もその季節がきて、それぞれの個性 を追求した絵画作品がお目見えする。では、麓彩会が発足した60年前、小川原脩はどのような作品を描いていたのだろう。
 小川原は1958年頃から、倶知安の峠下遺跡の発掘に関わる など考古学の世界に没頭し、遺跡・遺物、そして地面そのもの をモチーフに取り込んでいた。1960年の第 3回麓彩会展目録 には、「土について」という題の連作3点の出品が記されている。 同時期の著述文では、黒曜石の石器について、打ち割られて創り出される鋭利で繊細な形を「マイナスの造形」と呼 び感嘆の言葉を記している。
 薄く、慎重に土を剥いでゆくと現れる、古代の生活の跡。本作「土」は反対に、絵の具を重ねて厚みを出し、激し い凹凸を作っている。赤いレンガのように日に焼けた土、石器、土器片、それらを掻き出した痕跡まで、発掘現場の 地表面を再現しているかのようだ。

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2018年8月
『オショロコマ』  制作年不詳  小川原 脩 画
 
 魚のしなやかさを、1本の流れるような線で、その動きのすべてを捉えている。背に通った1本の線から魚の体全体が形作られ、オショロコマとわかる独特の模様はぼかしを効かせ、透明感と柔らかさを感じる背びれと尾びれは薄墨で描かれている。色も水彩絵の具で印象的に加えられ、顎の青と、腹びれの赤が鮮やかである。
 小川原脩にとってオショロコマは、少年時代に兄弟で釣りをして遊んだ思い出とともに、その食べ方にも一家言あり、「軽く焼いて一晩干すと、良い出汁がでるんだよ」と話していたという。
 小川原の色紙絵には、遊び心や伸びやかさがあり、見飽きない。色紙に一回限りの線が、筆ですっと入れられる。角度をつけて消えてゆく線は、尾びれの活き活きとした動きを絶妙な加減で表現している。木炭でキャンバスに繰り返し下絵の線を引き、その中から選び取って仕上げられてゆく小川原の油彩画とは、正反対の描き方といえるだろう。尻別川の清流を想い起させる、涼しげな作品である。

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2018年7月
『網走風景』  1975年  小川原 脩 画
 
 夏も本番が近づき、山々の緑も色濃くなってきた。山に囲まれた倶知安の町ではあるが、ひょいとニセコ連峰を越えれば、海のある風景と出会える。素敵な土地柄である。
 7月の祝日・海の日にちなみ、小川原脩の作品に海を描いたものはないか、見直してみた。まず1930年代、美校生の小川原が荒海に向かい描いた「波涛」の数々。その後は「宗谷海峡の漁師」(1953年)、「雷電風景」(1965年)など、数こそ多くはないが、1970 年代までの間に度々、海が登場する作品を描いている。
 本作は、その中でも珍しい海辺の町を描いた縦横30センチ足らずの小さな風景画。緑がうっそうと茂る高台から、網走市街の建物の向こう、海岸線を眺めている。網走の
シンボル「帽子岩」の特徴的な形と防波堤のアーチとがはっきりと描かれている。岩山はその名のとおり帽子のかた
ちで海にふわりと置かれたように見え、訪れた小川原の印象にも深く残ったことだろう。
 明るい日差しを受ける海、海沿いの煙突からは静かに煙がたなびく。爽やかな夏の情景が、小さな画面いっぱいに広がっている。

無題

無題

2018年6月
『無題』  1975年  小川原 脩 画
 
 野山や庭先では、春の花が「また来年」と別れを告げ、次第に夏の花へと移ろい始めている。
 今も昔も、洋の東西も問わず多くの画家が、その色・形に惹かれて花々を描いてきた。小川原脩もまた、さまざまな花を題材にしている。カーネーション、ダリア、パンジー…そして夏の花は「ユリ」である。
このユリは珍しく上を向いて咲いている。上を向いて咲く種類は限られるようで、スカシユリと思われる。画面全体が黄昏時のように赤みを帯び、花の色も実際より赤みがつよい印象だ。
 神妙にうずくまる犬と、その手前に大きく、花だけが描かれているユリ。大きく開いた花に鼻先を向けている。もし私がこの犬と親しい関係であったなら、背をなでて、花を眺めているのか、何か良い香りがしてくるのかと、思わず話しかけたくなる。小川原ならではの組み合わせの妙が、ここでも生きている。

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2018年5月
『犬たち』  1974年  小川原 脩 画
 
 犬たちがひしめき合う。中央に位置する2頭が、これでもかとばかりに吠え立てる。画家は、ここぞという1点1点に、すっと白い絵の具を載せる。その、むき出しの歯が白く光る。
 1970年代中頃、小川原脩は野犬の群れをよく題材にした。「自由」を標榜しながらも群化していく社会の中で、野良犬が自由の象徴のように思われ、関心を寄せたのだった。小川原はこのように記す。「社会が群化して行き、私はますます取り残されて行くように感じた。群れるものの思考の攻撃性とその同質性を軽く見るわけには、いかないのだ」
 しかしその野犬の群れの中で、犬たちはおのおの違った表情を見せている。恐れ、威嚇、抑圧、追従、諦め、そして無関心…この野良犬たちは、本当に「自由」なのだろうか。人間を犬にすり替えて、群化した社会の内実を見せつけられているように感じる。

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2018年4月
『無題』  1971年  小川原 脩 画

 1970年の晩秋、小川原脩は根室・知床へ「『旅』への憧憬を心に秘めて『旅行』に出た」。この時見た情景、その心境を北海道新聞※に寄稿 している。納沙布、羅臼などを巡り、灯台や原野、そしてトドワラを目 にして想いを馳せた。
 「トドワラ」とは別海町のオホーツク海沿岸部、野付半島にある、トドマツなどの枯れ木が残る一帯をさす。私自身も数年前「地の果て」への憧れのようなものを抱いて トドワラを訪れたことがある。白骨化した ような枯れ木がポツンポツンと点在し、荒涼とした風景が広がる。小川原も「巨大な生物の骸骨の捨て場みたいに奇怪で荒廃した風景」と表現している。
 根室の原野の枯れた大地の色と、濃く垂れ込める雨雲を思わせる空の色。画面を上下に大きく二分する色彩は、1970年代中盤の作品の土台となっていく。この作品はその中で、犬とトドワラを選び組み合わせたもの。手前に大きく描かれた茶ぶちの犬が、さっと伸びやかに駆け横切ってゆく。一方で 朽ちるまでの果てしない時間を宿すトドワラ。透き通るような淡いブルーが、まるで樹木の幽霊のようだ。「ちいさな犬の作品たち」展では、犬と描かれる「何か」も数多く登場するのでお楽しみいただきたい。