ブックタイトルShu Ogawara Collection
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Shu Ogawara Collection
小川原脩の世界柴勤小川原脩記念美術館館長小川原脩の歩み小川原脩は、戦後の北海道に大きな足跡を記した油彩画家です。1911(明治44)年、倶知安に生まれ、油絵を始めたのは、停学中に友人から道具を譲り受けた13歳の旧制中学時代。その後、西村計雄たちと絵画グループを創設したり、また札幌まで展覧会を見に行くなど美術への関心を深め、その思いが、東京美術学校(現在の東京藝術大学)への進学として結実します。在学中は、道展(北海道美術協会展)や全国規模の東光会にも入選を重ねるなど、意欲的な活動が目を引きますが、特筆すべきは、当時最大の公募展であった帝展(帝国美術院展覧会)への入選です。1935(昭和10)年の卒業後は東京にとどまり、当時の前衛美術であるシュルレアリスム(超現実主義)に傾倒します。その大きな転機は福沢一郎のアトリエを訪ねたことで、それ以降、「エコール・ド・東京」、「アヴァン・ガルド芸術家クラブ」、「創紀美術協会」と活動の場を急速に広げ、終にはシュルレアリスムの本丸となる1939(昭和14)年の「美術文化協会」結成にまで参加するようになります。しかし、社会の風潮は戦時体制へと傾き、小川原自身も戦時色の濃い作品を描かざるを得ませんでした。1941(昭和16)年には招集を受け旧満州へ出征、1943(昭和18)年には戦争記録画が陸軍大臣賞を受賞、翌年には、陸軍省から戦争画の制作委嘱を受け、再び中国へ渡ることになります。しかし、この戦争記録画を描いたことは終戦とともに大きな重荷となり、かつての仲間、中央画壇とも分断され、疎開のために一時帰郷したはずの倶知安が、その後の唯一の制作拠点となります。郷里に戻った終戦の年に「後志美術協会」や「全道美術協会(全道展)」の創設に参加するなど、直ぐに活動を再開します。その後は、この全道展と、1958(昭和33)年に創設した麓彩会、1971(昭和46)年以降毎年のように開催していた札幌での大規模な個展が活動の中心になります。また公立美術館への出品も常態化、1988(昭和63)年には道立近代美術館で回顧展が開催されるなど、画家小川原脩の存在は確固たるものとなります。こうした中、1975(昭和50)年の北海道文化賞をはじめとして文部大臣褒章、北海道新聞文化賞、北海道開発功労賞など名誉ある賞を次々に受けることになります。倶知安町立の小川原脩美術館は、いわばその総仕上げとして、1999(平成11)年、町を見下ろす小高い丘陵地にオープンしました。目の前には、町のシンボルでもある羊蹄山が揚々として聳えています。美術館の船出を見届けた2002(平成14)年、91歳の生涯を全うしました。小川原脩の画業東京美術学校の西洋画科では、和田英作や南薫造といった日本近代美術を主導する指導者のもとで、写実を基調としたアカデミックな美術を学んでいます。その最たる成果が、倉庫で働く労働者を描いた「帝展」の入選作〈納屋〉です。しかし次第に、そうしたアカデミズムに疑問を抱くようになり、卒業後は、福沢一郎らに誘われて「エコール・ド・東京」、次いで「美術文化協会」とシュルレアリスムを追求する前衛美術グループに参加します。その中で、小川原はデペイズマン(転位)やデフォルマシオン(変形)などシュルレアリスムの手法を用いた作品を生き生きと描き上げていきます。その後、戦時下には時代の流れに従い戦争記録画を描き、従軍画家ともなりますが、藤田嗣治などと異なり、小川原の作品には凄惨な戦場場面が見られません。戦後、郷里に戻ってからの画風の変遷を画家自身は画集の中で次のように述べています。終戦「再出発の時代」、50年代の「シュルレアリスムから造形性へ、あるいは迷走の時代」、50年代の終りから「土俗性・原始性を通して野生へ」、60年代は「『学生の叛乱』と呼ばれた時代」、70年代の「哲学は死んだと言われ始めた時代」、この細かな分類からは、常に表現の可能性を追求しようとする画家としての激しい姿勢が感じられます。世界の動きに呼応したシュルレアリスム、アンフォルメル(非定形絵画)のような前衛的な美術を試みる中で、長年にわたって描かれたのは、「群れ」と「個」をモチーフとする犬をはじめとする動物たちの姿でした。これらは、言わば終戦直後に経験した人間不信も一因を成す模索の時代と言えるでしょう。そして辿りついたのがアジアの大地です。68歳から75歳にかけて中国やチベット、インドを各2回ずつ、6回にわたり訪問しています。壮大な自然に包まれ、生き生きと営まれる素朴な庶民の日常生活。悠久の時間の流れの中で息づいている動物と人間が織り成す暮らし。見るものを安らぎの世界へと誘うアジアの作品ですが、それと同時に、造形的な試みもふんだんに盛り込まれています。水平と垂直の微妙なバランス、曼荼羅的な円環構図、至る所に散りばめられるリズミカルな曲線、幾何学的に単純化された○△□の形態、そしてその絶妙な組み合わせ、薄く施された色彩の響き合い。ここには描くことの原点に戻った画家自身の歓びさえ感じられそうです。画家は描きためたアジアのデッサンを手元に置きながら、最後まで、それらをキャンバスの上にまざまざと蘇らせていったのです。3