小川原流の生き方

 市街地の東、八幡という土地で小川原脩は生まれた。
父親が小学校長、母親が教員という家庭である。低学年の時は母親に、高学年には父親に直接習うことが必然的な環境にあって、「自分の手元においてはいかん」という厳格な父親の意向と、両親の下での学校生活は家庭の延長ということもあったのだろう。小川原は4キロほど離れた町中の第3尋常高等小学校(現・倶知安小学校)に通うことになった。通学はいつも独り、洋服にランドセル、足にはゴム長靴という、当時の小学生のスタイルとしては異質ないでたちで、かなり目立っていた。これも、長い道のりを歩いて通う子供に対する親の心配りだったのだろう。しかし、学校では親しく遊ぶ仲間もほとんどおらず、いつも独りだった。
通学の道はまっすぐ西に延びている。その向こうには、ニセコの山々が日本海と山間の町を隔てるような壁のように連なっている。道の南側には開拓地として整備された耕作地が拡がり、蛇行しながら流れる尻別川を越えるとすぐに、羊蹄山の裾野が迫りやがてコニーデ型の山体に行き着く。行き交う荷馬車や図体の大きな農耕馬、季節ごとに変容する未舗装の道路、そして独りぼっちの通学。
そのような周りの有様や生活環境が、後の小川原の精神的な原風景としてしっかりと心に刻み込まれた。
まさか、絵描きになるなって全く思いもよらなかった小学校から旧制中学時代。しかも図画はあまり好きではなかった。飛びぬけてということではないものの、成績は良いほうで漠然とだが将来は医者になるのかな、と思っていたという。
北海道庁立倶知安中学校(現・倶知安高校)に進学した小川原は、どちらかというと体育会系のやんちゃな中学生であった。特に水泳の飛び込みは有名で、体を鋭角に折り曲げた「ジャックナイフ」という方は得意中の得意で、学生たちの垂涎の的だったらしい。弟の小川原理によると「よし、飛び込むぞ」といって木造の倶知安橋から眼下の尻別川にあの「ジャックナイフ」型のスタイルで飛び込んだそうだ。
「旧制中学2年生で自らの一生を決める手がかりを得て、5年生の時にはっきりと人生の目的を定めた。」という。2年生で一生の手がかりを得たのは『ある事件』(※1)がきっかけだった。その事件によって無期停学、自宅謹慎という処分を受けた小川原のもとに友人が油絵具一式を持ってきた。あまり絵が好きではなかったし、教師にも反抗的な態度を取り続けていた小川原だが、1年生の時に東京から赴任してきた白井幸三郎という若い美術の先生には、親しみを感じており絵も好きになりかけていた。絵具を持ってきた友人は、そんな小川原の変化を知っていたのである。絵に興味を持った小川原は、3年生の時に同級生の西村計雄らと「緑会」という絵画グループを結成、本格的な絵の勉強を始めるようになった。札幌で開催された日仏現代美術展や1930年協会洋画展などを観、特にゴッホや佐伯祐三らの作品に感動し、画家を志す決心が固まった。

【※ある事件】

入学したての頃はおとなしかった小川原。そのうち悪友と付き合うようになってから、教師にも反抗的な態度をとるようになっていった。肌が合わない、そんな教師が何名かいて、蛇を捕まえては机の上に置くのはまだ序の口。
あるとき、小川原の将来を決定するような事件が起こってしまった。
中でも気に食わない教師の授業時間、背の小さな小川原の席は一番前にあった。石炭ストーブに石炭を入れるのは主に前の席の役目だった。彼は5分おきぐらいに石炭を投げ入れる意地悪をした。日頃から小川原の行動を快く思っていなかった教師はたまりかねて、「何をするか!」と手を挙げたが、それより小川原の足蹴りのほうが早かった。
が、結果は二人とも不発。しかし、教師をからかったという罪で無期停学になってしまった。自宅謹慎の小川原の友人が油絵具一式を持ってきた。
このことがきっかけで油絵への挑戦が始まった。